昨夜、河原でブログ作成中、太陽熱でグニョグニョに溶けて変形してしまった板チョコをボリボリとやり過ぎたのか、くいこんだ銀紙でも一緒に飲み込んだか、朝から腸の様子がおかしい。そんな訳で、一人ゆっくり歩く事にした、少し歩調に余裕を持って歩いた方が思索には都合が良い。
修道院の中には、回廊が有って、修道士は、静かに歩を進めながら思索する。僧堂では、経行と言って似たような行をするが、走る回る臨済禅より、一歩半歩ゆっくりゆっくりと歩を進める曹洞禅に近いかもしれない。何れにしても、ゆったりと歩くのは気持が良い。残り少ないサンチアゴへの道。開けた森の中を行く。 一時のブームは去ったようだが、随分の巡礼者が、巡礼道を行く。したがって、泊まって、食べるという事になる。街は兎も角、巡礼路の村々の繁栄ぶりは、Arubergeの数とBarの数で持って推し測れる。瀟洒なArubergeがどんどん増えた。ピリグリムと言うよりハイカーは便利と快適を求めて左様のArubergeを利用する。様変わりの激しさは、前述の如し。
巡礼者の数は増えたが質は落ちた。サンチアゴへの道はもう神への道ではない。というのは、カリストへリスに住むMou氏のセリフである。この道には何処にも沈黙を見つける事ができない。と実に手厳しい。 そう言われれば、真夜中のArubergeでさえも色んな音色のいびきでうるさい事である。
自から沈黙の世界に身を沈めようとする姿勢は見られない。朝から晩まで、オラ、オラ。ビエン カミノの連呼連呼で、心の静まる時がない。道中 馴染みと出会うとこれまた大騒ぎ。何でこうなるの~~?と問い交わす。
一刀両断。巡礼者に信仰心がない。これしか言いようがない。これもMou氏のやや大胆すぎる発言。
大学の友人、kさんや 、Nさんたちが、「私たちから信仰を獲ったらなにも残らない」などという言葉が胸に突き刺さる。
神様や仏様の前にあっては、全く取るに足らないこの私という信仰の原点の認識もなく、ただ歩いていれば、何かわかるなどという思い上がった考えがあるのではないか?己を虚しうする為にこの道を歩いておりますの思いは、今も、Arubergeの食堂で騒ぎまくっている巡礼者と言われる人達からは伺うことはできない。
信仰の心が無ければ、神や仏がみつからないのはあたりまえの事で、サンチャゴへ、サンチャゴへいくら近ずいても、神様にはつ近づかない。
こんなに様相の中にあっても、やっぱりCamino de Santiagoは巡礼の道で、揺るぎない信仰の道である筈である。