今年は、ローマ法王がわざわざ巡礼の特別聖年と指定したと聞き及んでいる。巡礼者の数は増えることだろう。巡礼者に若者が多いことは以前にも書きましたが、憂うべきは、巡礼モラルの低下である。グループでやってくるのは、問題あり。<
本来、 巡礼は一人であるべきかも知れない。グループは本来の巡礼の意味を無くしやすい。
グループ性が、巡礼の意味を自ら破ってしまうのである。そういう私たちもグループである。
その致命所をつくずく感じながらの旅である。
若者に限らず、徒党を組むと、宿などでは特に、一人では考えられないような、モラルの低下を見る。要するに、他人に迷惑をかけていることに気付かない行為である。
老夫婦が、アルベルゲの予約にやって来た時、コリアンのグループを見た途端、踵を返して他のアルベルゲに向ったことがあった。この時は、たまたま韓国の若者達であったが、日本人でも煩いのが有った。これはレストランでのことではあったが、10人ぐらい食事でもすればこうなるのは当たり前である、周りの客など気になりようが無い。この様に、若者に限らず、人が集まるとこうなってしまうのである。カミノ デ サンチアゴは宗教的巡礼、即ち、何処まで沈黙をキープして歩みを進めるかがメインテーマである事は、何度も述べていることである。が、前述の日本人の様にハイキング に転落してしっまた。ボーイハント、ガールハントの場となっていることも、嘘ではない。
そういう特殊例が、特殊で無くなって、目に余るのも目撃する。同行の若者に申し訳なく思う。
道中,路の改良も加速度的に良くなって,歩き易さは格段の相違であった。わずか四年前と比べても。
アルベルゲの変貌はこれ又凄まじく、、蜂の巣的ドミトリーから個室化への変動著しく、居住空間は、開放的となり、総じて美しい、その分,気持ちに節制が効かなくなり、守るべき分別心が無くなって、お互いが思い合う、譲り合う。という心が無くなって、修学旅行の宿のようである。
巡礼者然としたピルグリム に出会うと、ホッともし、申し訳なくも思う。
全ての情報は、インターネット一つで収まって、何の苦労も要らない。毎夜毎夜wi-wiwを使って、巡礼で知り合った人たちとのメール交換で1日が終了。悪しき事では無かろうが、寂しく、悲しい。
そういう私も巡礼記作成の為と、多くの時間をブログ送信の為に時間を費やしている。
一人の若者が、ロザリオを手にかざしながら、祈りつつ、珠(たま)を巡らせながら、歩いている。諸聖人の名を唱えながら歩いている。巡礼になりきろうとする姿が、実に美しい。
善き行為は、自分はともかく、その行為に触れた他人を救いに導く。
悪しき行為は、自他共に不快な感情の中の落ち込んでゆく。
どちらも、気づかずになしている行為ではあるが、現れ方は大違い。
写真の教会は今までに出会ったうち一番小さくて最も可愛い教会でした。勿論、吹きましたよ。