謹賀新年 平成 二十八年 新春
元正啓祚 萬物威新(ガンショウケイソ バンブツカンシン)
元旦には見るもの聴くもの皆新しい。悟れば皆光明
齢を重ねますと、毎年毎年、時の経つのが早くて一年があっと言う間に過ぎてゆく。
特に年末にもなると、「あっという間の一年でしたねえ」と、高齢者の常套会話となります。
はたして時は過ぎていくものなのか、それともやって来るものなのか?
春がやってきますと、私も72歳となります。
大した人生でもないのに世の中解ったような、貧しい錯覚を持つ事もあります。年をとっても若くても、年の初めは、元正啓祚 萬物威新の思いを新に生きたいものです。
生きている時間の実感。子供の頃は、生きてきた人生、即ち実年齢分の、これから生きるであろう人生分 、となるから、当然、未来人生の時間は沢山有って、年の瀬や新年に、左様に切羽詰まることはない。反対に高齢者となると、この計算式でいくと、この後、生かされる時間の実感が殆ど無くなっていく訳である。
子供も高齢者も同じ時間を消化している訳で、子供には一寸おまけ時間が与えられたり、高齢者からその時間がちょろまかされている訳でもない。しかし、迫り来るものの実感度が圧倒的に違う訳である。同じ時間を消化しているのに何故に高齢者は何かに追われているような人生を生きるのか?
圧倒的に違うのは、「不思議」度ではなかろうか?私はそう思っています。
子供は、毎日毎日が不思議の連続で、「何で、何で?」が常套語である。反対に高齢者は「そんなこと当たり前や。」が常套語となっていき、人生に「不思議」が無くなってゆく。分かってもわからなくっても、世の中そんなもんだで済ましてしまいがち。人の一生で分かることなどほんの一欠片もありません。その道のお方がその様なことを言っておられました。未知との遭遇は、100歳生きても200歳生きても、不思議の連続であるはずです。お釈迦様は宇宙の真理を悟られましたが、悟れば悟るほど不思議の連続にきっと感動なされたことと思います。
今年、5月、再々度スペイン巡礼に出かけます。最後の挑戦として千キロの巡礼の旅です。果たして歩き続けることが出来るかどうか誠に不安です。何でそんな事をとの声もあちこちで聞きますが、「不思議だから」とお答えしています。体力は高齢者となりましたが心まで高齢者とならない為の私なりの訓練です。「不思議三昧」の世界を楽しんできます。そんな訳で、子供ものように、「何で、なんで?」と旅の行方にわくわくしながら時間を長く、楽しく使っています。今年もご一同さまのご健勝とご多幸を祈願いたします。お陰さまで保寧寺の杜は着々と進んでおります。御礼申し上げます。
保寧寺小住 小崎 無一 拝