和尚のつぶやき

齢に負けない

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来年は遂に70歳となる。親父は56年の命だった。保寧寺の前住職は81歳の命。父親は最後の病床にあっても、なを気力を絞って録音しておいた経済講座を一生懸命聴いていた。熊田前住職は、明らかに老体化ingの最中で有ったが決して、愚痴る様な言動はなかった。
私といえば、最近は、人と出会っても、心身の衰えを愚痴って慰め合うという最悪のパターンの様相である。
お寺の近くの天然温泉には時々出かけるのだが、そこでの話。
湯船に浸かってのんびりして居たら、親しげに話しかける御仁あり。 暫く合図値など打ちながらの会話であったがなんとしても、今話している相手が誰であるのか分からない。ひょっとして人違いじゃなかろうか?尚も伺いながら、だれじゃろけん?と思いつつなおも聞いていると、違う温泉でも会った、うどん屋でも会ったとやけに親しげである。和尚、和尚と連呼するので人違いでもなさそうであるし、、が、さっぱり思い出さない。そのうち、歳をとって、耳も遠くなった、記憶力は薄れてきたと、見るもの聞くものが鬱陶しいと、いやに悲観的てきである。私よりは10歳は若いと思われるのだが。いやいや、まだまだなどと慰め役を賜っていたのだが、話の筋からわかったのは、どうやらこの御仁、わが檀家の親戚らしく、親戚の葬式で会った、とか、その上、うどん屋のオヤジらしく、じぶんの店に私が入ってきたのを見たらしい、、。そんなの分るはずないよ。
愚駄はなしは止まる様相もなく続きそうである。温湯とはいえこう長くては湯あたりでもしては困るとそわそわと気乗りしないで聞いていたら、この御仁、御自分も湯あたり気味でフラフラと湯船から脱出。続いて私もすわっとエスケイプ。常々、法事などで、歳をとればとるほど生きることは重大で、責任も多くなる。油断なく生きましょう。と言っている。風呂などでふやけてはいられない。歳を重ねてもそれなりの歳をしっかり生きたいものだ。

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