和尚のつぶやき

巡礼  神様とお話し

  • 神様とお話なんぞ出来るのかしら?
    サンチアゴ巡礼を思った時の最初の疑問はこれでした。
    やってみました。確かブルゴスからサンチアゴの500キロでした。最初のチャレンジで余分の緊張もあったでしょう😅。荷物もバカに重くて、身体中がバリバリになって寝込むかと思いました。神様とお話しする余裕など有りませんでした。神様は何を要求なさっておられるのか、疑問の連続でしたが、その内、体は慣れて来てその問題は解消。その内「なんで歩いているの?」という変な囁きがとりつきました。そんなこんなで歩いていると。見るもの聞くものが、なんで歩いているの?と関与するのです。その関与は意外にも、楽しく付き合えるのです。言ってみれば、飽きない巡礼とななる事です。これは自分との対話です。対話という言葉は他人様との会話を言いますがこの会話はどこまでも自分の内なるAともう一つのうち内なるBとが自分に向かって問いかける言葉です。誰でもやっている事ですがこれを集中してやるのがカミノ デ サンチアゴなのです。これを目的とする旅がカミノ、サンチアゴなのです。僧堂の接心と同じです。坐禅ざぜんの連続で吐く息吸う息と一つになった時はたと感じるものがある。この巡礼においては一歩一歩にリズム感が出て左足と右足が一つの感覚になった時、はたと感ずるものがある。その時初めて神様との対話の予感が始まりを知るのでしょう、1人で歩いている巡礼者にはその予感がある。そういう香りがする。黙って歩いているからだ。神様と話したいという願望が見れる。神との合一(サンフアンデラクルス)。サンチアゴは誰でも歩けるし、このスマホ文化の中にあっては、無敵だ。老人といえども、このスマホ文化を避けて通る事はできない。今回に至っては、100人が100人ともスマホを実に鮮やかに扱って実にスマートである。が、何か違うな。と思うのは、使いこなせない僻みが原因だとすると、なんとも複雑である。神様との対話という巡礼の本質からどんどん離れて、無方向に歩いて行くのではないかと狭量爺さんは考えている。この様な戯言を書いている私は、下手なタッチングで駄文と写真を書き送っている。誰かさんじゃないが「ふざけてる」かなあ?

 

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