和尚のつぶやき

巡礼  サンタマリア教会

  1. サリアの教会はサンタマリア教会。聖母マリアかマグナレのマリアかはよく分かりませんが、優しいマリア像だったので聖母マリアかと思われる。ミサ直前、ミサの準備中の神父に、献笛のお願いは快く快諾。ミサが終わった後,わざわざ紹介して下さり信者さんたちも帰ることなく神父と一緒に聴いて下さった。私は禅宗坊主に似合わず、土壇場に弱い坊主として有名であるが、今回の巡礼旅に有って、いずれの教会でも緊張なく誠に心静かに吹くことができ余裕が有った。長年の練習結果がやっと功をそうしたかと嬉しかった。(そんなに懸命に練習した訳でもないけれど)‌ 大野先生と一緒出であったのもその理由であったかも。サリアからポンセラダまで穏やかな巡礼ではあったが、ツアー組の団体が数組有ってやけに五月蝿い。これが追いついたり追い越されたりと纏わりつかれた様に離れない。どう言う訳か、今回の荷物は前回の巡礼道中の荷物よりなんだか幾分重くなったようで嫌に重たも感じるし、よく慣らしているつもりだったシューズもすっきりしなくってそのうえ足も重い。巡礼初日してこうである。
  2. 懐かしいポフェラダの教会の献笛も穏やかに出来ました。教会で知り合った韓国系のアメリカ人婦人は今までの苦しかった旅の辛さと人生が一気に吹き上がって泣いて泣いて、、、、そして、喜ばれました。不思議な縁ですねえ。遥か彼方ピレーネ山脈の向こうから歩い来た旅人たちの姿は、旅の長さと疲れで薄汚れている。痛む足腰を必死の応急治療で凌いでいる。朝の出発時、5時半、暗がりの中、両足の一本一本を使い古した薄汚れた包帯を、取り憑かれた様に巻いているご婦人がいた。どれだけの日数をこの辛い現実と共過ごしいているのでしょうか?この苦しみの受容も神の試したもう啓爾なのでしょか?サンチアゴに着いたあの喜びを思うと、どうぞご無事でと願うばかりです。

それでも旅人は次から次へとトコロテンみたいにやってきって「ブエンカミノの連呼である。」

韓国人のご婦人とすれ違った。一心に何かを唱えている。手にはしっかりとロザリオを握っておられた。ロザリオは諸聖人の連祷時に使う数珠に似た聖器である。片時も、祈りを忘れないで歩く巡礼は当たり前と言えば当たり前なのだが、そんな巡礼者は、今やほとん見ない。居ないわけではない。カミノ デ サンチアゴは今や多様化しすぎた。祈りの巡礼者にとっては迷惑千万だろう。多様化のお陰で世界遺産となった。お陰で兄弟関係の熊野古道も四国88箇所も大盛況らしい。

 

 

 

 

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