チベット巡礼

旅の終わり

旅の終わり

拉薩と周辺市街地を一寸一回りと言った旅ですが、聞いて見るのと、行って見るとは大違いの旅行でした。チベッットという漠然とした文化イメイジは、わたしたちの訪問した街には一切ないと言い切れるほど、街は中国です。突然近代化されたビル群が現れて、中国国内旅行をしているようです。世界の料理、中国料理ですから、チベット料理の立ち入る余地もありません。大方のチベット族も週末や何かの時には、中国料理店にでかけるに違いないその数の多さです、我々も 今日は、餃子専門店、明日は麺専門店、朝はどの粥が良いだの、中華料理ばかりです。チベッット料理に挑戦しましたが、ギブアップです。肉が硬い、臭いとうるさい連中です。子羊のシャブシャブは絶品なのに。然し乍ら、その頃は高山病でヘロヘロで食欲ゼロに近い有様でした。
街づくりには全面的に中国共産党の支援が在って人々の生活水準は明らかに高いようです。幹線道路の周辺(他は見えないので)は、豊かな麦畑が続き、今正に刈入れ時で幸せの薫りが吹いてくるようなそんな風景です。チベットで一番古い町、ツエタンの城跡はバス停車場からかなりの急勾配の所にあって、躊躇なくロバに乗る。ロバを引く中の一人、四十前のハツラツ母ちゃんが話すには、うちの息子は北京の清厦大学法律学科の学生だという。清厦大学といえば日本では、東大、京大に匹敵する名門中の名門だ。(度忘れ)寺の住職(思い出せない)法師の端正で涼やかな顔を思い出す。確か、清;厦大学の出身だと思った。感心すると同時に、この息子はもうこの村には帰ってこないだろうと、歎息する。どのようにチベッットを背負って生きるのだろうと。拉薩の中学校から軍服の少年少女が出て来た。、校門には親らしき父兄が車を乗り付けて子等を待っている。中学時に軍隊訓練を受けると軍隊学校入学の優遇があるらしい。中国共産党による若いチベット兵の養成は最急務の事なのだろう。この複雑極まる環境下のチベット兵養成は考えられないほどの優遇が本人だけでなく家族一族郎党にまで及ぶのであろうと想像する。お前たちはチベット国家のチベッット人ではなく、中国国家のチベッット人たれ!。との国家戦略が剥き出しがいたるところで見え隠れする。かって、軍隊のない日本でさえ、自衛隊募集盛んなる頃規模は小さいけれど、似たり寄ったりはあったようだ。中国共産党がチベット軍隊を急ぐ大義名分は、インド国境の安全確保である。
ダライダマ亡命以前のダライ・ラマ下の軍隊は今は無く、亡命後正式名は無いけれど、 亡命兵士はインド軍隊の組織下にある。今、二十七日、北京に帰って来て、ラマ寺院、雍和宮にいる。旅行初日とはうっって変わって、太陽はあるがどんよりの何時もの北京である。雍和宮には北京市民かも知れなし、地方からの参拝者かもしれないが、いずれにしても、びっくりするほど多くの若者が一心に祈っているのである。まさか先祖供養のためとは思えない。ラマ教のふるさと、チベットを思っての祈りに違いないとこちらも彼等の祈る姿に祈っていました。

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