和尚のつぶやき

初心に帰る

禅と言うと禅の修行の坊さんも、専ら禅学に勤しむ学者さんもおしなべて、無だの空だの妙だのとやけに難しい言葉を連発して説明を加えます。こう言う言葉をクリアーしなければ本質が見えて来ないところに布教としての禅宗の限界があるのではなかろうかと最近は思っています。私の名前は無一と言いますが、いかにも禅宗坊主らしい法名で私は気に入ってはいますが名前に恥じない様な、名は体を表すような生き方かと申しますと、甚だ疑わしい訳で、自分の法名を堂々と説明すら覚束ない現状です。有だの無だの、有無を超えるだの 生死脱透だの兎に角厄介な言葉をばらまいて世間を晦まして来た感のある禅宗。禅に関心のある居士、大姉方もわかっても分からなくてもこの手の言葉を聞いていると妙にわかった様な気になって妙に安心している節もある。
私は「不思議三昧」なる言葉を作って最近はこの言葉の中で遊べるように努めている。が、これも分かりにくい。今日も座禅に集まったドイツの人たちにこのことばを筆で書いた絵葉書をお配りしたが、早速、どう言う意味かと質問の連発である。結局の所上手く説明出来ない。で、やっぱりと気づくのが、「生活信条」である。難しい事は言わずにこの言葉の実践が第一と気づく次第。

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