和尚のつぶやき

シベリア抑留戦没慰霊

IZEFA
ロシア シベリア慰霊法要の旅
平成29年8月22日~25日 4日間

私は1944年生まれ。したがって、戦争体験はない。
大阪の街が焼夷弾の嵐の中、バルナバ病院という所で逃げ隠れもできず母親といたらしい。
家は全焼で、大八車に焼け残った所帯道具を乗せて、道頓堀から両親の故郷滋賀県近江の親戚筋を頼って 、あっちで一週間、こっちで三日と、たらい回しの様な疎開生活であったらしい。
パラパラと降ってきた狐の嫁入りに慌てて竹やぶに逃げこんで、止むのを待っている姉と両親の姿を大八車のてっぺんから濡れねずみで見ている。まるで映画のワンシーンの様な景色や、栄養失調で頭から瘡だらけの私を背負って五、六キロぐらい先の病院に行く途中、母が、橋の真ん中から、橋げたを握って野洲川に放尿しているのを背中から見ていた自分の記憶がある。わずか一歳の記憶なので、時々この話に及ぶが、聴く人は、にわかに信じない。
「後からの記憶でしょう」と。天才的に記憶力を誇っていたこの頃ではあったが、わずか一歳の小さい記憶力ををあまりにも鮮やかすぎるカラービジョンに使いすぎたのか、以後私の記憶力はさっぱり。百パーセントアメリカナイズされた日本の教育界は、日本の歴史の、特に、日本の現代史、そのまた戦争に関する真実は、国民に伝えないと言う方針を採った。学校では戦争に関わる歴史の事実は一切といっていいほど教えられなかった。
近代史は三学期時間切れと言う理由でどこの学校もピタリと止まった。そう言う中で私は育った。
新聞の見出し程度の誠にあやふやな戦争記憶でもある。
IZEFAのご縁で、先年バシー海峡戦没慰霊法要に与り、今回また、シベリア抑留者戦没慰霊の一員となった。

今は有難い時代で、知りたいことは、即、インターネットが詳しく教えてくれる。情報はすぐ入手出来るが、中身の濃さは伝わらない。
追体験など出来るはずもなく、またしたくもない。只々、無念の程を慮るばかりである。シベリア抑留者の凄まじさは、想像を絶すると言うか、想像もできない様な極悪の生活を強いられた肉体的苦痛の連続だった。長きは十一年 にも及び、抑留から生還、生きて本土に帰った人達はなんと、本土に帰っても、肉体的苦痛以上に辛酸を味わねばならなかった精神的苦痛の連続であった。
無条件降伏がもたらした国家間のエゴの犠牲となったシベリア抑留からの生還者は、帰国後思わぬ落とし穴にはまって行きました。
「国家に見捨てられた民 、シベリア抑留生還者」と言っていいのでしょうか。恋い焦がれた本土の山河、ぐっすりと安心して休みたいと願った我が家にも疎まれる事態となり、帰国出来ると思って喜び勇んで乗った列車がシベリア行きとなったことも、国は了解済みです。
勿論喜んでそうした訳ではありませんが、そう了解しなければ日本国民が危ういという、その当時の日本の国家間力量バランスを推し量っての苦渋の了解だったのでしょう。何と、帰ってきたシベリア抑留生還者は、共産主義者のレッテルを貼られました。
そう自負して帰国した人も勿論います。しかし多くの生還者は共産主義とは無縁だったのですが、自由主義の道を決めた日本には誠に厄介な生還者となってしまいました。国家の為に兵士となり、辛酸を舐め、生き延びた命は国家の厄介者となってしまいました。シベリアの地で眠っている無念地獄と生き延びて日本に帰って、どんでん返し。無念の生き地獄。
シベリア抑留者の全てがこの構図上にある訳ではありませんが、記録等拝読するに、こんな構図が脳裏を駆け巡ります。
今は唯、わずか三十数名ではありますが、真心の全てを捧げた追悼の荘厳でありました。
日本に帰る日の朝、ウラジオストクの町は、たなびくガスが低き山背にかかって春かと思わせる長閑かな日差しです。
同宿の和尚様は 、ウラジオストクに三ヶ月ほど居たという御存命の檀家さんがよく口にされていた思い出の地、ウラジオストク駅を見たいと、出ていかれました。いい土産話になればと思います。

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