和尚のつぶやき

生きる痛み

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この記事は、朝日新聞「折々のうた」にあった。学生の頃、釜ヶ崎でアオカン(厳冬期にダンボールに包まって寝る労務者)のパトロールをした事があった。関東に移って、昭和の終わりから平成10年ぐらいか? 三谷のマリア食堂でボランティアで通っていた。日本基督教団の菊地牧師が仕切っていた食堂である。牧師の希望で、座禅をしましょう ということになって、指導することになりました。食堂にやって来るボランティアが対象であったが、次第に食堂にやって来る労務者諸君もちらほら集まる様になった。そのうちの一人、60はとうにすぎて70に近いかも知れない男性のことが忘れられない。小さな食堂で、外もうるさく邪魔も入るので、坐禅の時はシャッターを閉めて行います。
この御仁は、座禅に遅れる事は常識。坐禅の席には座らない。土間にドカンとあぐら座りであるる。おまけに頭には、何時もの汚い手ぬぐいのねじりは地巻き。わずかの時間を座り通した事は無く、ぽいと、で行くのが常であった。
せめて、ハチマキは取ったらどうですか?の進言にも、頑として応じなかった。
ある日の坐禅会の時。座って暫くすると、どんどんとシャッターを乱暴に叩いて、開けろ開けろと怒鳴るいつもの御仁。牧師が懲りてこの日は、シャッターの鍵を閉めたのである。
狂った様に叩き続けるのにたまらず牧師は出て言って諭すのだが「俺を無視した」と、お怒りである。そうこうしているうちに野次馬があっという間に集まって、意味もなく乱闘騒ぎ。問題の御仁は、関係の無い人たちから関係なく殴られ続けている。
異様な殴られ音が暗い室内まで響いて来るのだ。私たちは仕方なくというか、此処ぞと思ってかシャッターの内側で神妙に坐っている。
奇妙な様相となった。
初めは少しは抵抗したのかも知れない。殴られれば痛い。やめてくれ、とか、助けてくれぐらいは言いそうなものである。その時、そういう言葉はいっさい聞こえなかった。そして、聞こえて来たのは、「頼むから此の儘殴り続けてくれ」という悲痛を超えた哀願の叫びだったのである。死にたいのである。自分では死ねない。
ドキリとした。
好き勝ってに生きている様に思われるこの人の何とすれすれの生き様かと。
オリンピック景気、バブル景気でどこかで箍が緩んだまま修正無きままに都会の暗闇に生き残った三谷や釜ヶ崎の残留組の生き様にヒヤリとした昔を思い出す。明日の自分の行方も定まらぬ生き様は、痛い様に寄り添う一方と、出口のない痛みにヤケノヤンパチの人生であったのだろうか?
日雇い労務者の暗い歴史は、国家無策のつけでもあった。「折々の唄」はそんな事を思い出させながら、数年先のオリンピックで又同じ様な無策のない様に願うのである。

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